大変ご無沙汰をいたしました。前回の1月の更新依頼ですので、かなりご無沙汰です。前回、ふっとふっきれて、それからは職務に邁進しておりました。何よりです。
そんな中、大変な震災が起こってしまいました。
幾人かの知人が、震災およびそれに関連する事象により、命を失ってしまいました。
心より、ご冥福をお祈り申し上げます。
命に別条はないものの、避難生活を余儀なくされたり、余震の中、通常業務を行わなければならないという知人もいます。本当に、大変な惨事でした。これはまだ過去形にできないことですね、原発問題はまだ解決の見込みがありません。
やっと、あの日のことを、書こうという気持ちになれました。
3月11日。
私は通常どおり、銀座の事務所で執務をしておりました。おや、地震だな、と思うと同時に同僚から「けっこう大きいですね」という声。うん、私もそう思う。と思っていると、ガタガタガタン!とさらに大きな揺れがやってきました。嘘みたいな揺れ。現実とは思えない揺れ。物が落ちました。幸いにも戸棚が倒れてくることはなかったのが幸いでした。すぐテレビをつけると、もう、地震速報をやっていましたが、そのときにはまだ、震源地くらいしか分からず、被害の実態は全く分かりませんでした。
何度か、大きな揺れを経験し、どうやら電車は全部止まっているらしいという情報をテレビから受け、とりあえず事務所のお隣の靴屋さんでスニーカーを買ってきました。またスカートでは動きにくいので、トレーニングパンツの類も買ってきました。
事務所に戻るとテレビでは津波の映像などが放映されていました。あまりにむごい映像に、目をそむけたくなるものばかりでした。ガタガタガタン!また揺れます。もういつまで続くのか。細かい縦揺れの後に、大きな横揺れなどもありました。
発生は2時46分でしたが、その後そんな落ち着かない時間を過ごし、3時半過ぎに、これは、もう事務所を終わりにして全員帰宅した方がいいと決断しました。そのように所員に告げ、私も帰宅準備をはじめました。幸いにも、自転車通勤で使っている自転車が、すぐ私の机の横に置いてありました。
銀座の街には、人があふれていました。みな、ビルから避難のために通りにまで出てきた人たちでした。大きく揺れたときには、「キャー」という悲鳴も聞こえました。
はたして自転車で帰宅できるのであろうか。道路は使える状態なのだろうか。そんなことを考えざるを得ないほど、大きな揺れでした。
同僚弁護士が、エレベータが止まっているため、自転車を1階まで担いでおろしてくれました(感謝!)。数分前に夫は無事が確認できましたが、保育園に預けている子どもたちがどうなっているのかは、電話回線がパンクしており、確認できませんでした。どんな状態であっても、いち早く迎えに行ってあげなければ。そう思い、自転車を飛ばして帰宅することにしました。
道路に亀裂が入ったり等はなかったため、通常どおり1時間で長女のいる保育園に到着。全員がホールに避難し、頭を守るために帽子をかぶり、上履きを履いていました。先生方はヘルメットをかぶり、皆、緊張顔。4歳の娘は、寒かったのか、はたまた緊張か、いつもより青白い顔をしていましたが、元気そうに、ビスケットをもらったよ!と自慢してくれました。こういうときは、子どもが溌剌としてくれているのが、一番、励みになります。
次女は無認可の保育園だったのでとりわけ心配でしたが、1歳の娘にはまだ地震の怖さはほとんど分からない様子で、それが救いでした。二人の娘に無事再会でき、長女の不安を紛らわせるため、コンビニに立ち寄ると、一家族が、たくさんの水やお茶、カップめんなどを買っていました。
まだ自宅には戻っていない状態だったので、家の中がどうなっているのか。ライフラインがどうなっているのか全く分かりませんでしたが、エレベータが止まっているかもしれない。そうしたら階段で次女を抱っこし長女には頑張ってもらって上まで上がらねばならない。一度上がってしまったら、そうそう買い物にまた出かけることもできないかもしれない。そう思い、長女を勇気づけるためのお菓子や、お茶少々、おにぎりなどを買い、自宅に戻りました。
エレベータは、動いていました。果たして乗っていいのか迷いつつも、乗って自宅へ。部屋に入ると、テレビ台からテレビが落ち、液晶が割れて映らない状態になっていました。物もいくつか散乱していましたが、揺れの特徴なのでしょうか、西側の壁に沿うように設置してある物はこぞって落ちていましたが、東側の壁に沿うように設置してあった物は、落ちていませんでした。テレビは、西側のテレビ台に置いてあったので、落ちてしまったようです。
窓ガラスのカギをかけわすれていたのか、揺れでガラスが空き(天井までの高さの重いものでしたが、イチコロでした。)、セキュリティが反応して警報が鳴っていました。上の娘はその警報音におびえ、帰宅するまでは気丈にしていましたが、帰宅後、泣いてしまいました。急いで解除し、二人の娘を抱き締め、「ママがいるじゃん、大丈夫だよ。ね。」と。本当は、そうしながら、私が二人の娘に抱きしめられているんだと感じました。
大きな揺れで、ガスもストップ。これは安全上そのように設定されているので、自分で解除すればガスは戻りますが、その解除方法がよくわからなかったので、というか、それ以前に作る気にもなれず、食事は買ってきたおにぎりにしました。3人で子どものスペースにシートを敷いて、「ピクニックみたいにして食べよう!」と言って、食べました。通常と違うやり方に、次女は半べそでしたが、お腹が膨れてくるといつもどおりの笑顔が見えました。
お風呂はお休みにして、二人とも歯磨きをしてパジャマを着せました。夫が、帰宅難民になっていました。揺れた当時は恵比寿にいたらしく、しばらく、電車が動くのを待っていたそうです。おいおい、あの揺れで電車再開の目途なんて全くなかったのに・・・。そして、自宅に向かって歩き始め、新宿あたりで挫折。新宿の支店で知人と合流し食事などをしていたとのことでした。
私は、二人の子がパジャマに着替えて眠そうに眼をこすっているので、そのまま車に乗せ、大渋滞覚悟で、夫のお迎えに向かいました。普段高速をつかえば15分の距離でしたが、もちろん高速は使えませんし、あの大渋滞でしたので、2時間くらいかかったでしょうか。。。帰りは運転を代わってもらい、私は後部シートでウトウトしてしまいましたが、裏道のみを使って帰ってきたみたいです。大通りは全く、まーーーったく動かない状態でした。
私の実家は栃木です。両親も兄も無事でした。親戚も無事でした。しかし建物が半壊したり、動産類はめちゃめちゃ、その後停電があったり余震が続いたり、ガソリンがなくなったり食料がなくなったり、次々と乗り越えねばならない事がやってきて、大変な1ヶ月だったと思います。震災後まもなく、普段全然メールをしてくれない父が、家長らしく、毎朝「変わりありませんか」なんてメールをくれたりして、それが、ちょっと微笑ましかったりもしました。
私は、震災後、電車に乗ってまたいつ止まってしまうかもしれないという恐れもぬぐい去れず、また、節電の影響でホームも駅も車内も暗いので、なるべく自転車で通勤するようにしています。電動アシストがついているからだよ、とよくチャリ乗りの方に言われますが、え~、毎日毎日乗っているのに、痩せません!どうしたことでしょうか!!4月末には、親戚の子の結婚式があります、痩せねば困ります!!!
あ、話がそれてしまいました。
暖かくなってきました。桜も咲きました。花見なんてしていいのかとか、こんなときだから自粛しないでいこうとか、原発は本当はもっとやばいとか、いろんなことが言われています。が、どんなにやばくたって何だって、私は、この国を捨てるわけにはいかないし、東京で培ってきたこの生活を全てなげうって避難するだけの決断もできません。だったら、ここで生きて行くしかない。
避難生活を強いられている方は、本当につらいと思います。生まれ育った場所、自分の生活拠点がある場所が、客観的には危険な場所であっても、本人たちにとっては、唯一無二の場所なのです。「避難所のほうが安全でよかったじゃない」なんて口が裂けても言えない、言っちゃいけないことなのです。
原発が反対なのであれば、電気を一切買わなきゃいい。じゃんじゃん買って浪費して、それでも原発反対は、行動が矛盾している。でも今後は、発電方法についても、もっともっと考える必要はある。そうして一歩一歩進んでいくしかないじゃない。前を見なきゃ。後ろをみてあいつに責任があるとか、なんだとかかんだとか、政治的駆け引きしたりとか、そんなことをやってる場合じゃないだろうと、思う。
私は、私のできることをやるしかない。西に逃げてる場合じゃぁないのだ。西に逃げ場所なんてない。ここが、私の生きる場所なのだから。

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